「こどもたち」が見た戦争

(8月21日のFacebookより)

足立平和展に参加してきました。

足立平和展 東京大空襲資料1

3日間の展示の最終日、今回は戦争体験者の方のお話を聞いてきました。

戦争体験者(鹿児島にて)

10歳のとき、鹿児島にいたという女性、食糧難のなか、満足に食べることもできずに幼い兄弟たちはいつもお腹を空かせていたといいます。小さな弟を背負って家事をしていたときに、弟の体が熱くなったと思ったら泣き止み、そのまま亡くなったという、つらい体験を話してくださいました。「私が弟を良く見なかったから死んだんだ」と自責の念にかられたといいます。

登下校のときはいつでも笹の枝を持って、B29がくるとそれをかぶって、動かないようにしていたそうです。

会場からの他の方のお話では、アメリカの艦載機が草むらの中を転げるように逃げ惑うこどもたちを標的にして、もてあそぶかのように飛んでいたとのこと。

同級生の女の子の肩からお腹へ弾丸が突き抜けて、体の臓器がはみ出て苦しんで亡くなったという話など、耐え難い気持ちになりました。

今、戦争について証言してくださる方々は、こどもの時代に経験されていることがほとんど。自分のこどもに重ねて思うと、本当に、こどもたちにこんな苦しい思いをさせてはいけないと思います。

戦争体験者(満蒙開拓青少年義勇軍)

「満蒙開拓青年義勇軍」に参加していたという90歳の方からのお話もありました。

ご自身がつくられた資料のはじめの言葉が印象的だったので、以下にご紹介します。

「当時、軍国主義がはびこり、大陸への進出が大々的に叫ばれていました。八紘一宇、大東亜共栄圏、東洋平和五族協和など、とくに10町歩の土地が与えられる満蒙開拓には心動かされました。また、担任教師の熱烈なすすめがあり、同級生40名のうち6名が志願することになったのです。

私もその1人として、14才になったばかりなのに満蒙開拓青少年義勇軍として、国家的大事業に参加することを決意しました。父は男だから「そのくらいのことをやれ」と許しましたが、母は最後まで許しませんでした。

日本が敗戦するまで満蒙開拓事業が植民地的人間抑圧の制度、国際的犯罪であることを認識できませんでした。日本が一貫してとってきた戦争と侵略、他民族を抑圧する側にいて、中国(旧満州)の人びとを苦しめたことを深く謝罪するとともに反省し、その証として日中友好運動、世界の平和運動、人類の解放のための憲法が生かされるよう努力することが大切であると感じているところです。」

90歳の男性のお話は力強く、胸にずしっとくるものでした。

会場には同じく戦争を体験された世代の方も多く、皆さんが口々に、いまの安倍政権の動き、社会の空気が戦前に戻るようだ、と言っていました。

そして、とにかく教育が大事!今の自民党政権の教育現場への介入について、あってはならないことだという声が相次ぎました。

私自身も、どうしたら戦争になってしまうのか、そのプロセスを学び直して、いまの問題に結びつけていくことが重要ではないかと、思いをあらたにしました。