東京大空襲・戦災資料センターを訪ねて

「我が子よ、日本をめぐる国際情勢次第では、日本の中から憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないとも限らない。そしてその叫びが、いかにももっともらしい理屈をつけて、世論を再武装に引きつけるかもしれない。そのときこそ、誠一よ、茅野よ、たとえ最後の二人になっても、どんなののしりや暴力を受けてもきっぱりと戦争絶対反対を叫び続け、叫び通しておくれ」

私は先日、江東区にある東京大空襲・戦災資料センターを訪ねました。

館長で、作家の早乙女勝元さんが館内を案内してくださいました。

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冒頭の言葉は早乙女さんが編集した「平和のための名言集」に収められた永井隆博士が記した一文です。永井博士は長崎の原爆で重傷を負い、6年後に43歳で亡くなったそうです。

なので、この言葉は終戦の6年後、1951年頃までに記された言葉になります。戦後70年以上たった今、まさにその言葉があてはまるような状況になっている。この状況を言い当てる言葉がすでに戦後間もないころから、戦争体験者から訴えられていたことに、私は驚きました。

 

【こどもたちと戦争】

早乙女勝元さんは足立区に住んでいらっしゃるので、私も地元で何度かお会いをしていて、 区内のママたちと立ち上げた「秘密保護法を考える女子会@足立」の学習会でも、講師としてご協力をいただいていました。

早乙女さんは現在84歳。71年前は東京・墨田区の向島に住んでいて、12歳のときに米軍機B29による3月10日の東京大空襲に遭いました。

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東京大空襲のことは私も本で読んだりして、いくらかそのときの状況は頭の中にありました。前に行くにも後ろに行くにも火の手があがっていて熱風に追われながら、どちらに逃げたらよいかもわからないような状況の中で、一夜にして下町地区の10万人もの人の命が奪われた。そんな中で、早乙女さんがどのようにその夜を明かしたのか、逃げ惑ったという状況を当時の地図を使って教えてくださいました。

白鬚橋のたもとで迎えた朝、12歳の早乙女さんが見たのは、焼死体や水死体によって、隙間な埋め尽くされた無数の運河と隅田川の悲惨の光景だったといいます。

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幸いにも早乙女さんはその空襲では家族みんなで逃れることができました。しかし、親を失った子たちは戦災孤児になり、家も家族も突然なくしたなかで、他の大人にも助けられることもなく、飢えて亡くなっていったこどもも多くいて、そうした戦災孤児の様子も館内には展示されていました。

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私はこれまでも戦争当時のことに少しずつでも触れていく機会はありましたが、今あらためて胸にずしっと感じるのは、この当時のこどもたちのことです。当時のこどもたちに今の自分の6歳の息子を重ねて思うと、理不尽に、家族も家も命も奪われる、ごはんを食べれない、そうして途方にくれるこどもたちの苦しみはいかほどだったかを思わずにはいられません。そんな状況を大人がつくってしまってはいけない、そうあらためて、強く思いました。

 

【戦災資料センターができるまで】

早乙女さんは年々風化していく東京の戦争被害について、次の世代に伝えていかなくてはいけないと、1970年に「東京大空襲を記録する会」を立ち上げて体験者の証言や遺品などを集める活動を始めました。戦後25年、それまで、こうした取り組みに公の機関が動いてこなかったこと自体も驚きですが、美濃部都知事だった革新都政の時代に一度、東京都が戦災の資料館をつくろうという話が進んだにもかかわらず、石原都政のときに予算が凍結されて実現に至らなかったとのこと。現在の資料センターは土地も建物も有志の方々の支援によって、2002年に開設されたとのことです。

都が平和祈念館をつくる話が進んでいたころは、収集した遺品や資料などは都で管理してくれていましたが、都議会で予算凍結となったあとは、その品々も都の管理から放れることになり、早乙女さんたちが自費で倉庫を借りて保管していたそうです。他国では戦争の遺跡や資料館を公的に守っている例がたくさんあります。国や東京都もなんと冷たいのだろうか、と思います。後世に語り継いでいかなくては大切な平和への教育に、日本の政治はいかに後ろ向きなのかを感じざるをえません。

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【国民をだまそうとする政府】

 

資料館で早乙女さんは、ご自身も驚いたという資料について教えてくれました。「国民総力」7巻13号、1944年7月号に陸軍中将が寄稿している記事。東京大空襲の8ヶ月も前に書かれたものです。

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「東京の爆撃をあるひとつの想定の下に計算しますと、約十万人の人が死ぬことになります。(中略)しかし東京の人口は7百万から8百万である。そのなかで十万人死んだところで東京は潰れない。日本全体を考えると十万人くらい死んだところで驚くにはあたらない。」

詳しい方はご存知の資料かと思います。しかし、私はここで初めて知り、驚きを禁じえませんでした。はっきりと、10万人が焼け死ぬことも想定されて、堂々と書かれていたなんて。当時は、こうした書物は庶民の手には入らない状況でした。お上がどんな議論をしていても、知らされない状況でした。

 

では、いまはどうか。いままさに政府は11月にもアフリカの南スーダンでの武力行使の開始をねらって、そのための訓練を自衛隊に開始させています(8月25日に稲田朋美防衛大臣が発表)。この地での日本の武力行使が始まれば、まさに日本から乗り込んで始める戦争になります。去年9月に強行された「安保法制」は日本の防衛を強化するものと思っている方も多いのではないのでしょうか。メディアでは北朝鮮や中国のことがよく取り上げられますが、いま日本がやろうとしていることは、日本の防衛とは関係のない、南スーダンからすればまさに専制攻撃を受けるものになります。(南スーダン政府は日本の武力行使を望んでいません。)

また、国民へのだまし討ちは安倍政権のなかで貫かれています。これまで3回にわたって「争点はアベノミクス」と自民党がうたった選挙で勝利したあとは、争点になどしていなかったことを強行しています。1回目は重要な情報から国民の目と耳と口をふさぐ「特定秘密保護法」。2回目は戦争を可能にした「安保法制」。そしていま狙っているのが、まさに9条改悪と基本的人権を制限する改憲。まさかの3回目、選挙期間中、しきりに改憲は争点ではないとひた隠しにしておいて、終わった直後に「自民党は改憲草案を出しているのだから、それも含めて選択していただいているのだろう」という厚顔な発言。もう、びっくりです。。

71年前の戦争当時は情報網も限られ、お国のための情報だけで国民の目に政府の動きが映らない状況をつくっていました。早乙女さんがの言葉によれば、「国民は見えざる、聞けざる、言えざるの状況にされ、とにかく火の雨のふりそそぐ日々だった」と言います。

いまは逆に、情報網が発達していることが落とし穴になっているのではないかと私は思います。これだけ情報網が発達している社会のなかで、私たちは必要な情報はすべて受け取れているという思い込みがあるのではないかと感じています。しかし、いま巨大メディアから流れる情報には、スポンサーとなっている大企業・財界のお金の力によって、あるいは政府からの圧力によって、バイアスがかかっているものが多いことに、国民の多数が気がついていかないといけないと思うし、そのための努力を私たちはしないといけないと感じています。早乙女さんも、たくさんある情報のそれぞれに発信者(メディア)の立ち位置が影響していることを読み解いていかないといけないとお話されました。政府の立場の代弁ではなく、国民の目線で発信されている情報を私は大切にしたいと思っています。

 

【希望はある】

早乙女さんは、「南スーダンで武力行使が始まれば、日本の自衛隊にも犠牲者が出るでしょうね」とおっしゃいました。そうなったときに、日本から乗り込んでいったにもかかわらず、よく考えなければ、もっと相手を打ちのめしてしまえ、という右翼的な潮流が大きくなることもありうると、その危機感をお話してくれました。いまの政府の動きや、モノが言いにくくなってきている空気は「戦前・戦中に似ている」と。

しかしそれでも、今は女性にも参政権があり、あやうくても民主主義の国。まだモノが言える。この1年で若い人たちが立ち上がり、SEALDsやママの会ができたことは大きな希望だと、早乙女さんはおっしゃいました。そして、戦争反対!と国会で掲げられる政党の活躍も大きな違いだと。

私も実はうっかりと、戦時中はすべての政党が「大政翼賛会」に入って戦争を推進していったと思っていましたが、そうではなく、日本共産党はあの当時から、戦争反対と民主主義(主権在民)を訴えていた唯一の政党として存在していました。そういえば、治安維持法で共産党が非合法とされ、弾圧された、ということもさらっと中学のときの授業で習っていた、と思い出したのは、30歳を過ぎてからでした。

早乙女さんも終戦まで、そんな政党があったことは知らなかったといいます。親の世代はもしたしたら知っていたかもしれない、だけど、口にすれば「非国民」とされてどうなるかもわからない中でそのことは封印されていて、自分にも見えなかったのではないかと、お話されました。戦後、共産党員として戦争反対、労働者に権利を!と訴えていた小林多喜二の「蟹工船」を読んで、そんな言論があったのかとショックを受けたそうです。

いまは市民運動やそういう政党がきちんとあることが希望だと語ってくれた早乙女さん。戦争のない平和な社会、希望ある社会をこどもたちに手渡すためにがんばらなくてはいけないと、決意を固くした1日でした。

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